5月 1日は最も偉大なF1レーサーと称されるアイルトン・セナの命日。
1994年 5月 1日、サンマリノGP(グランプリ)の本戦中に高速コーナーのタンブレロにてコースアウトし、コンクリートウォールにクラッシュ、帰らぬ人となりました。
世界中にF1ファンを数多く生み出した立役者でもあったセナ。
日本においても例外ではなく、F1がテレビで全戦見られるようになったことも影響し、セナ人気が一気に高まりました。
目次
1994年 5月 1日 サンマリノGP
出典元:https://www.formula1.com/en/drivers/hall-of-fame/Ayrton_Senna.html
波乱続きだった悪夢のサンマリノ
1994年の第 3選・サンマリノ グランプリはイモラサーキットで行われました。
セナは開幕から全てポールポジションという快挙でレースに臨みましたが、スタート開始から波乱レースでした。
スタート時にJ.J.レートのベネトンがエンジンストールし、発進できなくなっていたところにロータスのペドロ・ラミーが衝突。
事故で破損した部品が観客席にまで飛び負傷者を出す事態に。
この事故によりセーフティーカーが導入され、事故の処理とコースの安全が整うまで周回が続けられました。
レースは再スタートそして・・・
コース上の安全が確認されレースは再スタートとなりましたが、セナがトップでレース主導を続ける 7周目。
セナが左高速コーナーのタンブレロでコースアウトし、コンクリートウォールに激突。
セナは病院に運ばれるも、セナの死亡が確認されました。
当初は主催者側の発表によりセナの死亡時刻は病院への搬送後、病院で死亡確認がなされた時刻とされていましたが、後に行われた裁判でセナの死亡時刻はクラッシュ直後で、1994年 5月 1日午後 2時17分として記録されました。
コース上でセナはすでに即死状態で、主催側がレースを継続したいがため死亡時刻を遅らせたのではないかという憶測が今も残っています。
イタリアの法律ではモータースポーツのイベント中に死亡事故が発生した場合、原因の調査のために直ちにイベントを中止し、現場を保存しなくてはならない義務が発生するからです。
裁判での判断が出てもセナの死亡時刻は病院到着後、という姿勢を主催者側は崩すことはありませんでした。
安全面での不安視され続けていたタンブレロ
せながクラッシュしたタンブレロは、それまでも事故の多いコーナーのひとつでした。
コンクリートウォールがむき出しになっていることから「いつか取り返しのつかない事故が起こる」と言われ、度々危険視されていた場所でもあります。
まさにその危険が具現化してしまったセナの事故でした。
アイルトン・セナの生い立ち
出典元:https://www.formula1.com/en/drivers/hall-of-fame/Ayrton_Senna.html
本名 | アイルトン・セナ・ダ・シルバ |
生年月日 | 1960年 3月21日 |
没年月日 | 1994年 5月 1日 (34歳) |
血液型 | Rh+B型 |
利き腕 | 左手 |
出身地 | ブラジル サンパウロ州サンパウロ |
没地 | イモラ・サーキット(イタリア) |
F1初参戦 | 1984年 ブラジルGP |
アイルトン・セナ(本名:アイルトン・セナ・ダ・シルバ)は1960年 3月21日、ブラジルのサンパウロで資産家の父と母のもと生まれ、姉と弟の姉弟(してい)の家族構成でした。
セナの生まれたサンパウロは人口 1,200万を超える巨大都市で、観光都市のリオデジャネイロより西に420Kmほど離れた場所に位置します。
日本からサンパウロに行くには直行便がないため、アメリカなど他国で乗り継いでサンパウロ入りをします。
乗り継ぎ時間も影響しますが、30時間を超える旅となるでしょう。
サンマリノGPの開催が行われていた「イモラ・サーキット」
1996年まで開催されていたサンマリノ・グランプリ。
サンマリノ共和国の名があるものの、舞台のイモラ・サーキットはイタリアのボローニャ県イモラ市にあります。
イモラ・サーキットはサンマリノ共和国の北西に位置します。
イモラ・サーキットは別名「エンツォ・エ・ディーノ・フェラーリ」。
フェラーリの創立者のエンツッ・フェラーリと、24歳の若さでこの世を去ったエンツォ氏の息子アルフレード・フェラーリの愛称「ディーノ」から名付けられています。
フェラーリの本社のあるモデナ県マラネッロからは車で約 1時間の距離。
サンマリノGPは例外開催
F1はもともと 1国 1か所開催制度。
シーズンを通してひとつの国で開催されるF1は 1か所のみというルールでしたが、イタリアだけ例外が認められイタリアGPとサンマリノGPという 1国 2か所開催が行われ続けていました。
セナの事故後、安全な走行ができるようコースレイアウトの大改修が行われましたが、F1を取り仕切るFIAは 1国 1か所開催制度を遵守する意向となり、2007年よりサンマリノGPは廃止、イモラ・サーキットをF1が走ることがなくなりました。
現在のイモラ・サーキット
セナの事故によりコースレイアウトが変更
セナの事故により、高速コーナーだったタンブレロはシケイン(コーナーを連続させるなど速度を落とさせる目的の区間)化されました。
タンブレロは高速コーナーで事故の多い場所でしたが、高速コーナーの割にセーフティーゾーンが少ないことが度々問題視されていましたが、タンブレロのすぐ後ろにはサンテルノ川が流れ、セーフティゾーンを増やすのは難しい状態。
現在のタンブレロ
現在の様子。(参照:Google Map)
ジグザグにシケイン化されていますが、もとや緩やかな円を描く 1つのコーナーでした。
セナが走っていた頃は左、右と続くシケインの先にまっすぐ伸びるコースでしたが、レイアウトの変更で様子が大きく変わりました。
コースレイアウトが変わり、コンクリートウォールも役目を終えたことでしょう。
セナの事故前日の予選中にも死亡事故
セナが亡くなった前日の 4月30日、予選 2日目にローランド・ラッツェンバーガーが帰らぬ人となっていました。
ラッツェンバーガーのマシンのフロントウィングが走行中に外れ、コントロールを失ったマシンは時速314Kmでヴィルヌーブコーナのコンクリートウォールに激しくクラッシュ、ラッツェンバーガーは頸椎損傷などでほぼ即死状態でした。
クラッシュ後も惰性でマシンが進み続け、ヴィルヌーブコーナーの次のトサコーナーまで進んだところでようやく停止、事故の激しさを物語っています。
セナのコクピットから見つかった国旗
ラッツェンバーガーの事故の次の日、今度はセナがタンブレロで命を失うことになりますが、事故後のセナのマシンのコクピットからオーストリアの国旗が見つかりました。
オーストリアはラッツェンバーガーの国。
セナはレースに勝利し、ラッツェンバーガーと共に勝利を味わおうとしていたことが後に判明します。
歴史を「たられば」で語っても意味はありませんが、もっと早く1国 1か所開催制度を遵守する方向に働いていたら、サンマリノGPが廃止とななりセナやラッツェンバーガーの死も避けられていたのかもしれません。